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2007年11月08日

2007.11.8 中日ドラゴンズ日本一と歴代ナンバーワン

 今回は野球の話。もちろん私の地元、中日ドラゴンズの日本一について。したがって他球団のファンの方々は読まれずにスルーしてほしい。私のファンの方々にもいろいろな球団のファンの方がみえる訳で、もちろん多いのは巨人ファンだろうが、阪神、横浜や広島、西武や日本ハムという方もみえるし、知っている。それぞれが贔屓の球団を応援すべきだし、それで良いと思う。だから今回は中日ファンと、あるいは中立の方で興味があった方のみ読んでいただければと思う。

 さてご存知のように今年のプロ野球は中日ドラゴンズが日本一になった。これは昭和29年以来、実に53年ぶり。私が生まれてからは初のことであった。もちろんその間にもチャンスはあったのだが、日本シリーズではことごとく負けてきた。私が知っている過去を簡単に振り返ろう。

 まず昭和49年。この年20年ぶりに優勝。私は当時小学校6年生。子供であったが、この年の優勝は今までで一番名古屋が沸いたと感じている。優勝決定試合はダブルヘッダーで、テレビで見ていたのだが、星野仙(敬称略、以下の選手も同じ)の熱投と試合後のファンで埋め尽くされた中日球場が忘れられない。また中日の応援歌「燃えよ!ドラゴンズ」ができたのもこの年。歌ったのは板東英二。これがその後中日の応援歌として、歌詞を変えては続き、33年経った今も続いている。こんなに長く愛される歌になろうとは誰も思わなかったはずである。私の家でも、父が会社帰りにこのレコードを買ってきてくれた。その時の嬉しさは今も覚えている。名古屋では何ヶ月も売り上げ一位が続き、当時売れていた郷ひろみのレコードさえも東海地区では負かしたのだからそれは凄かった。また学校でもホームルームの時間にこの曲を何度か歌った。それも教師が率先して。クラスでたった一人の巨人ファンが悔しがっていた。今だったら問題になるのかもしれない(笑)。
 しかしこの年の日本シリーズは金やん(金田正一)率いるロッテにやられた(2-4で負け)。最終の第6戦、テレビで見ていてロッテの投手の剛速球が凄くて負けを覚悟した。「パリーグには凄いピッチャーがいるな。」と思った。村田兆治だった。

 時は流れて、次に優勝したのは昭和57年。私が大学2年の頃。喫茶店のアルバイトに明け暮れる毎日だった。シリーズもバイト先のテレビで毎日見ていた。この年は西武に2-4で負かされた。中日ファンなら忘れもしない"審判石ころ事件"の年。詳細は書かないが、中日ファンは誰もがこの年は審判にやられたと思ったことである。

 次の優勝は昭和63年。第1期星野監督時代で、落合現監督などが選手でいた。しかしまたしても西武に1-4で敗れた。この年は、私はサラリーマン時代。内容は実力負けだったと感じた。当時の西武は黄金時代でとても強かった。

 その後、平成に入ると中日はなかなか勝てなくなった。Bクラスも何度かあり、夏までもたない年もあった。しかし平成11年に久しぶりに優勝。シリーズの相手はダイエー。またしても1-4で負け。確かに相手は強かったが、それ以上に中日の選手はまったく実力を出せないままの敗戦だった。

 そしてあとは落合監督になった平成16年の西武戦(3-4で負け)と昨年の日本ハム戦(1-4で負け)である。こうして振り返ると、最初の頃は当時の選手が言っていたように「リーグ戦での優勝で満足したり、燃え尽きていた。」という感じもしていたが、平成になってからは「選手が日本一を意識しすぎて、まったく実力を発揮できなかった。」というのが正しいと思う。中日の選手は昔から真面目タイプでおとなしい人が多い。野武士タイプや俺についてこいタイプがいない。数字で存在価値を示すような優等生タイプが多かったのも短期決戦である日本シリーズで勝てなかった大きな要因であろう。シリーズになるとナーバスで神経質な試合ばかり。責任感から固くなり、実力の半分も出せずに終わり。バンバンと振り回してくるダイエーや西武、日本一の重さなど考えずに楽しむばかりの日本ハムなどにやられたのはその為であろう。

 ところが今年は違った。それにはクライマックスシリーズが大きく影響している。なぜなら今年のシーズンは中日は2位なのだから。つまり2位でもクライマックスシリーズのおかげで日本シリーズに出られた訳で、このことにより「絶対に日本一にならなければいけない。」という過去にシリーズのような感じはなく「これはチャンスだ!」という雰囲気で戦えたのだと思う。さらにそのクライマックスシリーズで、阪神、巨人に全勝したのが大きかった。選手はこれで自信と勢いをつけ、それを日本シリーズにつなげた感じである。つまり今年からの新しい制度が良い方に味方した結果だった。

 それではその日本シリーズを振り返ろう。まず第1戦。これは負けたが川上が1回に取られたホームランの3点の後立ち直り、その後の21人をパーフェックトに押さえた。負け投手にはなったが、これが実は大きなことだった。これでこのシリーズはいけると感じた選手が多かったようであり、負けても手応えはあったようだ。
 しかし私がこのシリーズで一番の勝因だと思うのは、第2戦の中田の好投である。これが一番。この勝利がなければ2連敗。昨年の二の舞だったかもしれない。私は今回の陰のMVPはこの中田だと思っている。阪神、巨人に勝ったのも彼である。
 そして名古屋に戻った第3戦は、その中田と1歳違いで仲が良くて、さらに中田にだけは負けたくない朝倉が好投。これも中田効果である。ただ第3戦はこれとは別に、120パーセント中日が勝つ理由があった。それは今月号の「風花ゴールド」に書いておいたのでご覧ください。
 第4戦は中日らしい継投の勝利。これはもう勢いだったろう。そして第5戦。世間でも有名になった山井パーフェックトでの交代劇。これについて私ももちろん意見がある。ただしやはり世間一般人や評論家とも少し違う。今回は述べないが、今後のツアーやパーティーなどで私に会った場合は聞いてくれれば答えたい。私が交代支持派か反対派か考えてみてください。ともあれ最後を締めた岩瀬は流石過ぎる。そして何より山井が素晴らしかった。山井にはこれを機に自信を持って、一流への道を歩んでほしいと思う。
 打者ではMVPを取った中村紀はもちろんよくやったが、私が選べばMVPは荒木だったろう。しかし全員が頑張った勝利であることは間違いなく、全員がヒーローであり、日本一の戦士であった。おめでとう中日ドラゴンズ!53年ぶりの日本一バンザイである。

 それでは最後に、私が選ぶ独断と偏見100パーセントの中日の選手の各分野における歴代ナンバーワンを書いておく。こういったものは100人が選べば100通りの意見があるし、私は昭和47年以降くらいの選手しか知らないから、当然その中での選択となる。それでもこの機会に書いておきたいので、自由に選んでみた。

《投手部門》 小松辰雄
 まずは投手部門、これは昭和29年を知っている人なら杉下だろう。私の父はやはり杉下だという。また母は以前、「歴代最高のピッチャーは権藤に決まっている!」と言っていた。昭和29年に32勝したフォークボ-ルの杉下、新人の36年に35勝、翌37年30勝で、2年間で65勝した権藤。共に中日の歴史に残る最高の投手である。あとは小川健太郎の名も父から聞いた。ただ私が知っているのは松本、星野仙、三沢以降。好投手は星野や松本から、都、郭、牛島、今中を経て最近の山本昌、川上まで数多いが、選ぶとすれば小松か鈴木孝政しかいない。それくらいこの2人の全盛期の球は速くて、凄かった。共に数多く試合を見ているし、けがや故障後も見ている。タカマサも大好きだったが、小松の速球の球威こそ歴代ナンバーワン。これは中日のみならず日本のプロ野球の歴史からみても、村田兆治、と並んでナンバーワンだと思っている。違うと思う人は小松の全盛期を知らないだけである。昭和60年の最多勝、最優秀防御率、沢村賞などを取った全盛期は今の松坂やダルビッシュなど問題にならない凄いピッチャーだった。

《4番打者部門》 トーマス・マーチン
 こちらは迷った。私の父は西沢と言うし、その後なら江藤だろう。私以降なら谷沢や大島、他に外人ではモッカやゴメス、日本人ならもちろん落合や宇野から最近ではウッズ、福留まで多くの4番打者がいた。その中で選んだのはマーチン。49年の優勝時の印象が強烈であり、多くのファンに愛された選手だった。

《救援投手部門》郭源治
 最近ではクローザーという抑えの救援投手。それも選んでみた。中日の歴史は押さえ投手の歴史と言っていいくらいに、昔から素晴らしい救援投手がいた。セーブというものが出来てから、順番に振り返ると、星野仙、鈴木孝政、小松、郭源治、牛島、与田、森田、宣、ギャラード、そして岩瀬。与田、森田は寿命の短い選手だったが、このメンバーは誰を選んでもよいくらいの素晴らしい、蒼々たるメンバーである。また前半の5人は救援だけではなく先発もやっていた選手。それぞれが素晴らしかった。しかし選ぶとすればやはり郭源治である。そのファイティングスピリットと愛すべきキャラクター。快速球とシンカー。また最近のクローザーとの決定的な違いは、最近が1イニング、あるいは2人や1人しか投げないという場合もあるのに対して、郭の時代はほとんどが7回からの3イニングを投げてのセーブ。時には6回からなんて場合もあった。つまり最近のセットアッパーの役割も1人でやっていた訳で、価値が違うのである。また郭源治にはもう一つ《最優秀ガッツポーズ賞》もあげたい。中日ファンなら誰も異存はないであろう。ちなみに名古屋には今この郭源治の経営する中華料理店がある。運がよければ本人に会える。私の友人はシンカーの握りとかを見せてもらったことがあるそうだ。愛すべき好漢、郭源治。非常に人気のあった名選手である。

《守備部門》広瀬宰
 内外野併せて、守備の最高の選手も考えてみた。私の弟は高木守道しかいないと言った。多くのオールド中日ファンは高木守道か中利夫を選ぶであろう。また最近のファンなら荒木、井端、あるいは立浪、福留、アレックスと言うだろう。あとは久慈やなども名前はあがる。しかし私はあえて広瀬(遊撃手)。昭和49年優勝時のこの守備の名手を昔の中日球場、名古屋球場(50年に改称)で何度もみたから、その上手さが忘れられない。弟は「広瀬か。なるほどな」と言った。ただ私の父は「正岡だ(正岡真二、昭和50年代の遊撃手)。」と言った。

《代打部門》藤波行雄
 代打の打者では、昔なら大島。その数多い代打ホームランは忘れられない。また川又もよかった。もちろん今年の立浪も。しかしこれは絶対にゆずれない。藤波こそ歴代最高の代打だったと信じている。その1、2塁間を必ずゴロで抜いてゆく技術こそが最高の代打であり、まさに切り札だった。あとは次点で異常に勝負強かった仁村徹をあげておこう。

《外人選手部門》ウイリー・デービス
 最後は最高の助っ人、外人選手。先のマーチンや郭源治も外人といえば外人。またモッカ、ゲイリー、パウエル、ゴメス、宣、サムソンからウッズまで、素晴らしい外人選手はいっぱいいた。しかし最高と言えばやはりこの男しかいない。ウイリー・デービスである。彼はマーチンと同時期であり、4番はマーチンだったから、"4番打者"のところには入れなかった。しかしその能力はまったくのケタはずれだった。塁間を7歩か8歩で風のように走ると言われた(本当は9、10歩だったらしいが、7、8歩のように見えたということ)。当時「陸上選手より早いのではないか?」とも言われた。しかし今でいう1、2番タイプではない。そのバッティングもずば抜けていた。彼は昭和52年のシーズンが始まってから途中入団。その前は大リーグのドジャース、レンジャース、マリナーズ、パドレスでクリーンアップを打ってきた男でこの年36歳。過去の実績は大リーグで2561安打、398盗塁。それが途中入団。4月の途中から来て、そして8月2日に外野フライを追ってフェンスに激突して骨折。そのままアメリカへ帰ってしまった。つまり年間の約半分の試合しか出ていなかった。それでいてホーンランは25本。63打点。シーズンすべて出ていたら、いったいどれだけ打ったかわからない。帰るときに「来年はホームランを60本打つよ。」と言い残していった。特に凄かった記憶が2つ。1つ目は巨人戦での"満塁ランニングホームラン"。外野フェンス直撃の通常2塁打レベルの打球で、3人の走者がホームインで走者一掃!と誰もが思った時、打ったデービス本人が既に3塁を回っていた。巨人ナインも中日ナインも、そしてファンも何が起こったかわからない中をホームインして、そのまま巨人ベンチ前まで行って「見たか!この俺の脚を!ワオー」と雄叫び。本物の大リーガーの凄さを見せつけたのだった。あとで調べると大リーグでもランニングホームランを10本以上打っていたという。そしてもう一つは、たまたま数試合彼の打撃の調子が落ちたとき、当時の与那嶺監督がスタメンをはずした。これに発狂して怒ったデービス。仕方なく次の試合に先発に戻したら、全4打席で3打席ホームランをかっ飛ばし、あとの1打席もポール際でファールと判定されたが、実はホームランだったらしいという一撃を打った。彼は「本気を出せばホームランでもヒットでも自由自在さ。」と言っていたという。また大差負け試合の9回の打席で、彼の次を打つ谷沢に「ここはホームランを打っても仕方ない。シングルヒットを打つから、おまえもそうしろ。」と言い残してシングルヒットを打っていったという話もある。ともかく規格外のスーパー選手だった。しかし数々の奇行などもあり、大リーグを追われてきたとも言われ、中日もそのシーズンだけで契約を打ち切ってしまった。残念だった。今のファンは知らない人も多いと思うが、中日にはそんな超スーパースターも在籍していたのである。

 以上、今回は中日ドラゴンズ満載の日記。今回だけなのでこれも良いだろう。ちなみに最高の監督は近藤貞雄さんである。(No82 了)風花良